生きていながら死ぬ。死んでいながら生きる。

死んでいる。生きている。

今日は3月11日。

多くの人が、色々な事を想い、
色々な事をした日だっただろう。

あの時から「生きるという事」について
考えるようになった人は多くなった
のではないだろうか。

 

「生きる」とは「死ぬ」とは、どういう事か?

心臓が動いていれば「生きている」と
言えるのだろうか?

心臓が止まったら「死んだ」と
言えるのだろうか?

 

トルストイは

「動物的な、個人の欲に従った生」

を「生きている」と定義していない。

心臓が動いているだけでは
「生きている」とは言えない。

それが彼の意見だ。

 

ニーチェは

「どんな行為も、他の行為、他の人に
影響を与えている。よって私たちは
永遠に生き続けている」

と言っている。

心臓が止まって、物理的に死んで
しまったとしても、その人が残した
もの、それによって受け継がれたもの
がある限り、その人は生きていると言える。

それが彼の意見だ。

 

僕はこの二人の「生と死の定義」が
個人的に好きだ。

今僕がこの記事を書けるのも、
トルストイやニーチェの本を読んだから。

つまり彼らから「受け継いだ」からだ。

そういう意味で僕にとって彼らは
「生きている」と言ってもいい存在だ。

 

逆に、この記事でも書いたように、
僕はここ数年、体調不良で寝たきり状態
になっていた事があったんだけど、
その時の僕はほぼ死んでいたように思う。

心臓は動いていたんだけど、
身体は動かない。

(正確には動かすと痺れと痛みに
襲われて、とても不快なので動かせない)

誰とも会わず、言葉も交わさない。

「自分は何をやっているんだろう」

と考えてばかりで、全然納得のいかない日々。

心に血が通わなくなって、
緩やかに死んでいく。

そんな感覚があった。

僕個人の感覚になるけれど、
あの時の僕は生きていながら、
死んでいたとも言える。

身体と精神の分離。個人的に辛い日々だった。

今こうして

「自分自身の人生をデザインし、自分自身の人生を生きる」

という事をサポートしているのも、
こうした経験があったからこそのように思う。

そういう意味では、すべての出来事に
無駄な事は無いのかもしれない。

 

5年前のあの日、たくさんの人が命を失った。

そして同時に彼らは、たくさんの事を
僕たちに残してくれた。

彼らが残してくれたものを受け継ぎ、
残された僕たちがそれを活用していけば
それは則ち、彼らと共に生きている
という事が言えないだろうか。

そしてそれは則ち、彼らも生きている、
という事が言えないだろうか。

 

少なくとも僕は、そう信じている。

 

被災された方々の痛みが、
少しでも早く、癒えますように。

 

阿部 龍太

 

【追伸】

「使える」ブランディングについての
より深い情報や、あまり表には出せない
裏話等は、メルマガで書いてます。

→もしよろしければこちらから登録してください。

 

【追伸2】

「もっとビジネスを成長させたい」
「もっと人生を豊かなものにしたい」
そんなあなたはこちらをどうぞ。

→僕がご提供したいもの(お仕事一覧)

 

【追伸3】

「一度話を聞いてみたい」
そんなあなたはこちらをどうぞ。

→限定お試し「ゴチセッション」はこちら

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

ページ上部へ戻る