「教育者」とは何なのか?

「教育」って何だろう?

こんな記事を見つけた。

→3月11日に卒業祝い給食は非常識?
吉川の中学校で賛否、市教委は困惑

記事の内容をざっくり説明すると

 

埼玉県吉川市の中学校で、卒業生に
とって最後となる3月11日の給食を
「卒業お祝い」とすることになった。

教職員から

「震災のあった日にお祝いなんて非常識」

という声が上がっている。

市の教育委員会は

「既に献立も各校に配布しており、
材料も発注している。
変更は極めて難しい。
決定時には反論が出なかったのに」

と話している。

 

という話だ。

 

「3月11日にお祝いをする事」
=「良くない事だ」

というのは、僕も親戚や友人が被災した
から、感情論としては理解できる。

しかし、だ。

この記事に書かれている

市内の中学の男性教諭は

「献立は3月に学校に配布され、市教委に日にちの変更を求めてもなしのつぶてだった。

生徒に説明できない。鎮魂の日で祝う日ではない」

と問題視している。

(記事より抜粋)

という点がもし事実であれば、この方を
教師失格とまでは言わないけれど、
ただ「教育者」として今一度考えて
いただくべきではないかと思う。

 

鎮魂の日に祝いをすべきではない。

これが「教育者として間違い」だと
僕が思うのは、

「生徒に説明できない。鎮魂の日で祝う日ではない

 と言った(と記事にはある)点だ。

 

これはまさに、僕が最も危険だと思っている

「思考停止」

に他ならない。

 

なぜ、鎮魂の日に祝ってはいけないのだろうか?

そもそも「鎮魂の日」とはどういう日なのだろうか?

「祝う」とは、どういう事なのだろうか?

恐らくこの話をした方は、こういう事を
考えた事がないのではないか、と思われる。

 

例えば、

「鎮魂の日だからこそ、自分がこれから
どう生きていくかを考える」

「鎮魂の日だからこそ、おいしい食事を
食べられるという事の有り難みを知る」

「鎮魂の日だからこそ、生きていると
いう事について考える」

というような「卒業祝い」はダメなの
だろうか?

 

僕は「教育者」とは、

「他人の可能性を広げるきっかけを提供する人」

だと定義している。

 

新しい知識、新しい智慧、新しい経験。

自分が知っている「世界」を
アップデートしていく事。

そのサポートをする事。

それが僕の考える「教育」だ。

 

でも、この先生がやっている事は、
他人の可能性を広げるどころか、
凝り固まった思考を押し付け、
逆に可能性を閉ざしてしまっているように思う。

これは「教育」ではなく、
最早「洗脳」に近いものだ。

 

感情論として、ひとりの人間として、
彼の気持ちは理解できる。

あの出来事は、
誰にとっても辛い事だろうから。

でも、だからといって思考停止になり、
未来の可能性を放棄してしまうのは、
また別の話ではないだろうか。

 

今年も、あの日がやってくる。

 

阿部 龍太

 

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